信頼される
精神科医になろう

本サイトは、今後独立の委員会を立ち上げて、当事者、家族、ケアラー、市民、専門家の共同で完全リニューアルされる予定ですが、当面、東大精神科運営サイトのサブページとして、役に立つ情報を掲載いたします。

精神医学研究における「未来のあたりまえ」 〜「リカバリーの研究」と「研究のリカバリー」〜

日本生物学的精神医学会誌掲載。新興医学出版社および雑誌編集委員会の厚意により許可を得て掲載。

精神科医の本棚から

精神科研修をはじめたばかりの若手医師、指導医、看護師、臨床心理士、PSW、作業療法士が同じ本を片手に集まり、各々の日常臨床の経験を交えて語り合う会は、珠玉の時間です。ジャーナルクラブで取り上げられた著作から、各人の人生の一冊まで、スタッフの本棚から輝く一冊を紹介して参ります。

夜と霧

出版社
みすず書房
著者
ヴィクトール・E・フランクル
訳者
初版:霜山徳爾、改訂版:池田香代子

極限状態にみる人間という存在の深さ

私は、思春期の真っただ中にこの本と出会いました。高校1年生くらいだったでしょうか。自分はどういう人間なのか、何をよりどころに、何を目指して生きていけばよいのか、悩んでいました。ユダヤ人強制収容所の極限状態において精神科医フランクルは、自らが被収容者という立場でありながら、人間性の本質を記述し続けました。○月○日に解放されるという夢をみたあと、根拠がないにもかかわらずそれを信じ、案の定それが実現しなかったときに、未来を信じる力を失い、免疫力が低下して発疹チフスで亡くなっていく被収容者いました。一方、極度の飢餓状態のなか、なけなしのパンをフランクルにそっと譲ってくれる現場監督(被収容者ではない)がいました。人間という存在はかくも多面的で奥深いのか。また、それに対する感受性を持つ精神科医とは、何と貴重な存在なのか。私は本書をきっかけに自分自身の精神科医としての可能性に気づき、それ以来迷うことなく、文字通り修道僧のように、医学部に入るための勉強と、障がい者支援のボランティア活動に打ち込みはじめました。本書に出会っていなかったら、自分は今頃どういう人生を歩んでいたでしょうか。

笠井清登

心病む母が遺してくれたもの――精神科医の回復への道のり

出版社
日本評論社
著者
夏苅郁子

人の回復に締め切りはない―「夜と霧」以来の衝撃

フランクルの「夜と霧」から受けた衝撃以来四半世紀、精神科医への道のりを歩んできて、一定の達成感もありましたが、さまざまな困難に直面し、これでよかったのだろうか、今後どのように生きていけばよいのか、とも感じていました。そんなとき出会ったのが本書です。夏苅さんのお母さんが統合失調症を発症したのは、夏苅さんが思春期に入ろうとする10才の頃です。お母さんの症状は不安定で、お父さんとの不仲もあり、夏苅さんのこころは大きく傷つきます。医学生となり、精神科医への道を志すものの、自分自身の存在価値を見いだすことが出来ず、自殺企図を繰り返しました。友人との出会いと死、尊敬するターミナルケア医や夫との出会いを経て、人生後半になって同じ境遇(お母さんが統合失調症)の漫画家、中村ユキさんと出会います。自分の人生を物語り、価値づけることで、リカバリーを力強く果たしていきます。お母さん自身も、お父さんとの離婚後、地元の北の大地で孤独な生活を送りながら、俳句に打ち込み、出版を果たすまでに至ります。母と子のリカバリー過程の共通点は、「物語る言葉の力と勇気」でした。リカバリーに締め切りはない。これまでの人生の事実をかえることはできないが、意味を変えることは出来る、自分自身の存在の意義や新たな可能性を知ることが出来る。本書を一気に読んで涙が涸れたあともたらされたのは、私自身の存在と人生についての構造と実存の理解、すなわち私自身のリカバリーへの一歩でした。人間という存在の奥深さと世代・人生の意味を教えてくれる本書は、精神保健・医療従事者の必読書です。

笠井清登

ゴールデンケージ -思春期やせ症の謎-

出版社
星和書店
著者
ヒルデ・ブルック
訳者
岡部祥平・溝口純二

時代の流れから生まれた新たな病気と向き合う ~金色の鳥かごからの脱出~

「私は金色のかごにいるスズメである」と語る少女の言葉は私にとって衝撃的であった。「かごの中の鳥」という表現は、思春期の多感な時期なら誰しもしばしば感じることはあるだろう。そして「親の庇護=かご」を抜け出そうと、必死に抵抗したり壊したりして自由を求めることを、ごくごく一般的な「鳥」であれば一度は試みるだろう。そんな中、自分は「金色」のかごに似つかわしくない「スズメ」だと思ってしまう少女の病理はいったい何であろうかと私は本を読み進めてふと考えた。著者のヒルデ・ブルックは、元々小児科医で、精神分析学を学んだ後、摂食障害の第一人者として今でも多くの医師から支持されている女医である。彼女は、男女平等がうたわれ始めた1970年代に急に増えたとされる思春期やせ症を「新しい病気」と定義した。そしてこの病気は、常に周囲の期待に応えようと自身の要求を抑え込み、「誰もわかってくれない」という「孤独」をかかえて生きている少女達がほんのささいなきっかけで、重篤な飢餓に陥る病気としている。筆者は小児科医かつ精神科医であることから、身体面・心理面の両側面からの治療を可能とし、何より「男性と対等に働いている女性」だからこそ、この病気と正面から付き合い、そして患者達も心をひらいたのではないか。私はそう感じずにはいられない。思春期やせ症は、女性が社会にでて働きながらも、その社会の中でも今まで通り「娘」「妻」「母」として多彩な一面を持ち続けなければいけない「社会が生んだ病気」であり、そこに「金色のかごにいるスズメ」と感じてしまう原因があると個人的には考える。そして、時代の流れにそった「新しい病気」を現代に生きる私たちがどのように評価し、診断し、治療するのか。考えれば考えるほどきりのない問題提起をヒルデ・ブルックはしているのではないだろうか。

眞下文

臨床哲学講義

出版社
創元社
著者
木村敏

生き方の苦悩に寄り添う

後期研修医になってもうすぐ1年が終わる頃、私は、医療者やサポートスタッフに対して強い不信感を抱いている患者さんと出会いました。「彼を苦しめている『症状』を少しでも軽くしてあげたい。」その思いから『症状』の経過を一生懸命追っていましたが、逆に2人の距離はどんどん離れていきました。「どうして距離が縮まらないんだろう。」そう悩んでいたときに、私は本書と出会いました。表面的に現れている精神症状について判断したり、解釈することを中止し(本書ではこれを「判断停止」すなわち「エポケー」と述べていますが)、その先に見える根源的な「生き方の苦悩」を知りましょう・・・本書では統合失調症、内因性のうつ病、双極性障害、癲癇といった病を、その独特な「生き方」を通して分類するといった試みがなされています。そしてその生き方からどのような「苦悩」が生まれ、それがどのような「症状」として現れるのかが描かれています。統合失調症を持つ人がなぜ自我を確立しづらいのか、確立しづらいがゆえに感じる「苦悩」とはなんなのか、読み進めていくほどに「ああ・・・あの時あの患者さんが言った一言はこういうことだったのか」とひしひしと伝わってきます。「症状を追いかけ、薬を出すだけで終わるのではなく、患者さんの『生き方の苦悩』に少しでも寄り添えるようになりたい。」そう思うのならばぜひ一度手にとることをお勧めいたします。読み終わって改めて患者さんに接したとき、その症状の裏にある本当の「苦痛」に初めて向き合えると思います。

岸本雄

うつ病臨床のエッセンス

出版社
みすず書房
著者
笠原嘉臨床論集

「うつ」を巡る議論の尽きない時代に

うつ病臨床の本です。この本の要は、うつ状態の臨床的分類に関する研究(いわゆる『笠原・木村分類』)にあります。1975年に発表された論文ですが、今も臨床現場で役立つ視点を与えてくれます。近年日本に氾濫する「うつ」をめぐる議論を前に、この本を読むのと読まないでいるのでは霄壌の差があると言ってよいと思います。後期研修医が「うつ」という大海に漕ぎ出すにあたり、クラシカルとは言え充分に確かな指針の役割を担ってくれます。この本を読んだだけではイメージがつきにくいですが、患者さんを診療する中で同期や他の先生方と議論する時に「笠原木村で言うと」というような枠組みを与えてくれる点で、非常にありがたく感じます。近年避けては通れない「発達障害」の問題とも絡めて考えると、また違った読み方も出来るかもしれません。ここ数年急速に市民権を得たうつ病ですが、何もかも「うつ」で片付けられてしまう現代日本において、精神科医として外せない知見を得ることが出来ます。個人的には最後に収録されている、2009年に書かれた『クリニックでの小精神療法再考』を興味深く読みました。極々基本的なことですが、うつ病臨床研究の先駆者であった著者が、実際の現場で試行錯誤しながら診療にあたっておられた様子が垣間見えます。将来外来での診療を行うにあたって忘れてはならない点が凝縮されています。きっと数年後に再読すると感覚的に腑に落ちる点がいくつも見つけられるような、そんな気にさせてくれる本です。

門脇亜理紗

統合失調症 2 (寛解過程論)

出版社
みすず書房
著者
中井久夫

回復の論理を照らし出す

「統合失調症の精神病理学は一般に発病の過程に精であり、寛解の過程に粗であるという印象がある。」という言葉で本書は始められた。初期研修医として半年ほど精神科医療に携わり、統合失調症に関しては発病過程にばかり目が向いていた私には新鮮に響いた。読み進めていくうちに、それまで強く意識して触れることのなかった寛解過程には実に繊細な変化が隠れていることを知った。その変化に気付き、より適当なアプローチをすることが寛解期に向かい、豊かな人生を送るための一助となるのであろう。またこの事は如何に再燃、急性期を乗り越えるかに思考が傾いていた私に、その後の人生の方が長い事を思い出させ、「その人の人生を診たい」という原点に連れ戻してくれた。作中では病期分類や治療的アプローチとして描画が用いられているが、こちらの記述も非常に興味深い。「彼らには世界がどう見えているのか」という、対話だけでは知り得ることのないミステリアスな世界を垣間見る事ができ、その神秘性にいつの間にか魅せられてしまう。使いこなすのは中々難しそうだが、いつか自分の引き出しの一つとして身につけたい手法である。初学者であり経験の浅い私にとっては難解な書物で、十分に噛み砕けてはいないが、それでも本書を紐解くことは「統合失調症とは何か」という終わりのない疑問を追求し、回復を支援する上で大いに役立つだろう。

出渕弦一

分裂病のはじまり

出版社
岩崎学術出版社
著者
クラウス・コンラート
訳者
山口直彦・安克昌・中井久夫

仔細な症例分析の積み重ねから内的体験の体系化につなげた鋭い洞察力に感銘

精神神経科に入局して2ヶ月。それまで接したことがなかった統合失調症患者との日々に悪戦苦闘しつつ読み進めた本書は、日々の臨床で私が眼前にしていた慢性期の患者が、そこに至るまでに経たであろう過程をまざまざと描写し、未だ遠く理解に及ばなかった患者の内界についての確かな手掛かりを与えるものでした。本書は、著者コンラートが第二次世界大戦中のドイツの国防病院で診察したドイツ軍兵士のうち、統合失調症の初発シュープ(病勢増悪)を呈した117例の患者の訴えを詳細に記述して体験構造を分析したものであり、その中でコンラートは統合失調症の本質を、知覚された対象の「本質特性」が突出して様々な意味に溢れ、健常な意味を手に入れることが困難となる「『関連系』の変換障害」であると捉え、発症過程において5段階の定型的過程に分けられることを見出しました。そして、その「『関連系』の変換障害」ゆえに、外界の事象が「私」に関連付けられる、内界の事象が世界に関連づけられて体験されるといった、内界が世界と筒抜けとなる状態を呈し、各種の精神症状の根源となりうることをコンラートは示します。人間の心的過程は心的要素に分割できるものではなく個々の心的要素の集合が総和以上の体制化された構造を示すというゲシュタルト分析の見地に立ち、関連系の「乗り越え」不可能性こそが病態の本質であると見抜いたことはまさにコンラートの慧眼であり、数多の患者の詳細な記述と丁寧な分析の積み重ねによってのみ到達する現象学的精神医学における金字塔と言っても過言ではないでしょう。日々の臨床において幻覚・妄想といった表層的な症状に一喜一憂していた当時の私にとって本書の内容はそれこそ目から鱗であり、統合失調症の心的過程の根本を見つめ直す機会となると同時に、精神症状の横断面のみならず縦断面を考慮して経時的に症状変化を追うべきであるという、精神科ならではの診療スタンスの重要性を再認識するきっかけとなった一冊でもありました。分量はありますが、精神科歴の浅い先生をはじめとしてベテランの先生や心理士・看護師、そして一般の方々まで、統合失調症に寄り添い、少しでも患者さんの内的体験の理解を深めたいと考えるすべての人におすすめの一冊です。

川上慎太郎

統合失調症がやってきた

出版社
イースト・プレス
著者
ハウス加賀谷、松本キック 〔松本ハウス〕

回復過程における「漫才」の役割に想いを寄せて

仕事の帰り道、ふと立ち寄った本屋で平積みにされた本書を手に取った。ちょうど、木村敏『臨床哲学講義』を読みながら「統合失調症の時間病理」について同僚と語り、「他人との間が合わない」という精神病理について、わかったようなわからないような気持ちでいたところだった。ハウス加賀谷さんと松本キックさんによる「松本ハウス」は、「ボキャブラ天国」等のテレビ番組に出演して一世を風靡したお笑いコンビだ。結成から8年が経過した1999年、人気の最中、ハウス加賀谷さんの統合失調症の悪化により、「松本ハウス」は活動を休止した。閉鎖病棟での入院生活、抗精神病薬の調整による症状改善、ウォーキング、ウェイターのアルバイト・・・つらい療養生活の中、家族や親友、そして相棒の回復を辛抱強く信じて待ち続ける松本キックさんの存在が、ハウス加賀谷さんのリカバリーへ向けた希望の光を灯す。10年の療養を経て、嗚咽と共にようやく口に出せた「またお笑いがやりたいんです」という言葉。コンビ復活をお二人が決意した日の、格別にうまい一杯のビール。勢いのある筆致に引き込まれて、一気に読み進んだ。復活ライブに向けたネタ練習をはじめて、「うまく流れに乗れない」「ボケる前に空白ができて間が悪くなる」ことにハウス加賀谷さんが愕然とする場面で、これが自分がわかったようでわかっていなかった「時間病理」のあらわれでもあることに気付く。「かたり」や「ふるまい」を読み、それに対して「かたり」と「ふるまい」を返す。そんな相互関係の構築という統合失調症の回復支援の本質は、まさに漫才そのもののようだ。回復には漫才が必要なのだ。危機的状況で一時的に相方を務め、松本キックさんのような本当の人生の相方と漫才ができるよう、繋げることこそが精神科医の仕事なのだと、自分の役割を知らされる一冊となった。

熊倉陽介

新訂 方法としての面接 臨床家のために

出版社
医学書院
著者
土居健郎

精神分析の泰斗が語る精神科面接のA to Z

わかる」と「わからない」とを軸に患者の類型化を試み、「面接は劇である」と喝破する。精神分析家ならではの視点が随所にちりばめられており、著者の豊富な臨床経験がこの一冊に濃縮されている。そしてあたかも濃縮還元ジュースのように、これを読んだ我々市井の精神科医によって加水されて医療現場へと送り届けられることが望まれる。

「わかってほしい」「わかっている」「わかられている」「わかりっこない」「わかられたくない」という5群に患者を大別し、それぞれの精神疾患の傾向を述べている。これは多くの精神科医にとっても、自らの経験上理解し得るところであろう。この分類は、患者理解への橋頭堡として非常に重要といえる。

精神科面接では、病歴聴取・診察・治療という一般的な医療面接の順序は必ずしもはっきりしない。むしろ逆順であったり渾然一体となっていたり、千差万別の様相を呈する。その中で重要なのは、非言語的コミュニケーションに注目しながら患者をゲシュタルトとして認識、理解することである。

専門的で小難しい精神分析的手法が延々と語られるわけではない。「抵抗」「対象関係」「転移」といった幾つかの精神分析学上の概念を時折援用しながら、患者理解への道程を浮かび上がらせるのだ。

面接を劇に比喩するのは秀逸である。患者は主役、面接者は脇役兼監督。そしてお互いに観客。観客であるから、劇を見ていて様々な感情が芽生える。主役を演じていて湧き出る感情もあろう。脇役である我々からも感情が湧き、主役と相互に影響し合う。これらの感情を的確に把握し、治療へとつなげていくことこそが臨床家に求められるスキルなのだ。

この本の濃縮されたエッセンスに自分なりのアレンジを加えて濃縮還元していけるようになれば、一人前の精神科医になれるのではないかと私は考える。今の私は未だ反芻を繰り返すのみだ。

星野瑞生

生活臨床の基本

出版社
日本評論社
著者
伊勢田堯・小川一夫・長谷川憲一

生活臨床、精神科医療のコペルニクス的転回

1958年群馬大学の臺弘教授により、「生活臨床」という考え方が提唱された。統合失調症は結婚、就職などの本人にとっての「課題」が達成されたときに治癒するというこの考え方は従来の精神医学を180度転換するものであった。悔やまれることではあるが、かつて統合失調症の患者さんに対しては精神病院に収容し、治療を行ってきた。社会から隔絶されていた時代。結婚、就職、就学など我々が当たり前に望むものを「無理だから」、「病状が悪化するから」とあきらめていた時代。

しかし時代はこの考え方が提唱されたのを機に大きく変わることとなった。患者さんには結婚や出産、就職する力がある。そしてこの力は統合失調症の症状を抑える力となる。患者さんの夢を制止するのではなく、挫折をしないように支援をし、また挫折しても立ち直れるように支援していくことが治療であると見直されるに至った。この本にはその精神科医のとるべき立場が示されている。

「それやってみよう、失敗したらそのときはサポートするから」

ブレーキをかけるのではなくそっと背中を押し、後ろから援護する。そういう精神科医に私はなりたい。

伊藤有毅

バウムテスト活用マニュアル 精神症状と問題行動の評価

出版社
金剛出版
著者
ドゥニーズドゥ・カスティーラ
翻訳
阿部恵一郎

木とはなんだろうか?
木はずっと人とともに在った。

晴れの日も雨の日も、人が手を取り合っているときも争っているときも、優しいときも悲しいときも 、信じているときもそうでないときも。
何でも知っている木だから、自らにも語れないことを木は映し出してくれる。同時にどんなにつらいことをぶつけても、木は受け止めてくれる。
ぼくらは木を描きながら自らと対話し、カタルシスを得る。

時間と同化したかのようなおおらかな存在を前に、そんな風にしてまるで吸い込まれるように人は自らを開示するのかもしれない。

ぼくらは木という大いなる存在に憧れ、おそるおそる自らを重ねてみる。
力強く大地に立つ木、ほっそり華奢で誰かに支えられていないと挫けてしまいそうな木、刺々しい葉で自らを守りつつもどこか儚い木、つらさを受容しつつも未来を向くかのようなしなやかな木。
それぞれの人にとっての木は、みんな違ってみんないい。
それはまた、人によって生きるとはかくも違うのだと、凄みさえ伴って訴えかけてくる。

水谷俊介